映画『スペシャリスト〜自覚なき殺戮者〜』
映画『スペシャリスト〜自覚なき殺戮者〜』
【上映案内】
【予告編動画】
ホロコーストに加担した元ナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンの裁判をとらえたドキュメンタリー。
1961年4月11日、ユダヤ人国家イスラエルの法廷で開始されたアイヒマン裁判は、イスラエル政府の意向により一部始終が撮影・録音され、全世界37カ国で放映されたと言われている。
ハンナ・アーレントによる同裁判の傍聴記「イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告」に感銘を受けたイスラエルの反体制派映像作家エイアル・シバンと「国境なき医師団」元総裁のロニー・ブローマンが、約350時間にも及ぶ記録素材をもとに再構成。
アイヒマンの“専門家”としての顔を明らかにすると共に、「自分は上司の命令に従っただけ」と主張する小役人の肖像を徹底したリアリズムで描き切ることで、アーレントが説いた“悪の凡庸さ”の実像を浮かび上がらせていく。(「映画.com」『スペシャリスト〜自覚なき殺戮者〜』より転載)
予告編:https://www.youtube.com/watch?v=1EUNoODzK7Q
公式ホームページ:http://mermaidfilms.co.jp/specialist-movie/
【INTRODUCTION】
アドルフ・アイヒマンは人間の皮をかぶった悪魔なのか?
歴史に名高いアイヒマン裁判を描いた傑作ドキュメンタリー映画!
ユダヤ人国家イスラエルが南米のアルゼンチンに逃亡していたナチスの親衛隊(SS)中佐アドルフ・アイヒマン(1906~1962)を拘束し、同国の法廷で裁いた“アイヒマン裁判”。戦後70年を過ぎた現在、この裁判の周辺を描いた『ハンナ・アーレント』(12)、『顔のないヒトラーたち』(14)、『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』(15)、『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』(16)といった数々の秀作が相次いで劇場公開されています。そしてこれらの作品群のなかで最も注目すべき映画が、本作『スペシャリスト ~自覚なき殺戮者~』です。
ナチス・ドイツの歯車として与えられた命令を従順にこなし、いつの間にかホロコースト(ユダヤ人大虐殺)に加担した男の姿を冷徹な視点で再構築したこの映画は、大企業における組織犯罪や公的機関における隠微工作のニュースが日々報道される現代社会を生きる私たちに、「個人はどうあるべきか」を鋭く問いかけます。
約350時間に及ぶヴィデオ素材を再構成した貴重な裁判映像が、ホロコーストに加担した“悪の凡庸さ”の実像を暴きだす。
1961年4月11日イェルサレムで始まった裁判は、イスラエル政府の意向で裁判の一部始終が撮影・録音され、その内容は全世界37カ国で放映されたと言われています。イェルサレムに保管されたアメリカの取材チームによるヴィデオ素材に初めてアクセスを試みたのが、本作の作り手たち。ハンナ・アーレントの裁判傍聴記『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』に感銘を受けた、“国境なき医師団”元総裁のロニーと、イスラエル映画界の“反体制派”の1人と言われる映像作家エイアルは、約350時間に及ぶ記録素材をもとに、約2時間の映画に再構成しました。
映画は、“専門家(スペシャリスト)”としてのアイヒマンの技術的能力と専門知識を浮かび上がらせる一方で、防弾ガラスに囲まれた被告人席で口びるをゆがめ「自分は上司の命令に従っただけ」とひたすら主張する小役人の肖像を、無慈悲なまでのリアリズムで描写します。ハンナ・アーレントが説いた“悪の凡庸さ”の実像を鮮烈に暴いた衝撃作!
スペシャリスト ~自覚なき殺戮者~
原題:Un spécialiste, portrait d’un criminelmoderne
製作:エイアル・シヴァン、アーメル・ラボリー/監督:エイアル・シヴァン/脚本:エイアル・シヴァン、ロニー・ブローマン/編集:オドレイ・モリオン/音響:ニコラ・ベッケル、ジャン=ミシェル・レヴィ、クリシュナ・レヴィ、イヴ・ローベル、ベアトリス・ティリエ/1999年/イスラエル=フランス=ドイツ=オーストリア=ベルギー/123分/モノクロ(一部カラー)/字幕翻訳:渋谷哲也
提供:マーメイドフィルム 配給:コピアポア・フィルム ©moment-films.Ltd
ABOUT EICHNAN アドルフ・アイヒマンの生涯
本作の主題となる人物アドルフ・アイヒマンは、1906年3月19日、ドイツ連邦共和国のノルトライン=ヴェストファーレン州ゾーリンゲンに生まれた。1913年に一家でオーストリアに移住。学生時代は成績不良で、複数の学校で退学・中退を繰り返す。父の採鉱会社で数ヶ月間働いた後、家電製品の販売員を経て石油会社の販売人になるが、1933年に人員削減の対象となり解雇された。1932年にナチス党員になり、後に親衛隊(SS)の中佐に昇進する。そして1942年以降、アドルフ・ヒトラーのユダヤ人撲滅作戦の責任者の一人となる。彼は親衛隊大将ライハンルト・ハイドリヒ(1904年~1942年)から、ドイツ占領下の東欧にあるゲットーや絶滅収容所へ向け、ユダヤ人を大量移送する計画の実行・促進を命じられたのであった。第二次世界大戦終焉後、米軍に逮捕されるが、1946年に脱走。逃亡の末、1958年にアルゼンチンに落ち着いた。
それから約二年後の1960年5月11日に、アイヒマンは潜伏先であるブエノスアイレスのサンフェルナンドにある自宅近くで、ラフィ・エイタン率いるモサド(イスラエル諜報機関)のチームに身柄を拘束された。続く約九日間、アイヒマンはモサドの隠れ家に監禁されたうえ、同月20日に極秘裏に旅客機に乗せられてブエノスアイレスを発ち、22日にイスラエルに到着した。アイヒマンの“密輸”を主権侵害とみなしたアルゼンチン側は、イスラエルに抗議。数回にわたる交渉の末、両国は8月3日に論争を集結させる旨の共同声明を発表する。その後イスラエル法廷は、アイヒマン捕縛をめぐる状況は、裁判の合法性とは何ら関係を持たないものとした。
アイヒマンはイスラエル北部のハイファ近郊ヤグル・キブツ内にある厳重警備の警察署に移送され、同署で九ヶ月間過ごす。イスラエル側は、証拠資料および証人の宣誓証言のみに基づいてアイヒマンを裁判にかけることを良しとせず、彼を連日尋問した(尋問記録は3500ページを超えた)。このとき尋問を担当したのは、ベルリン生まれのイスラエル警察職員アヴナー・レス(1916年~1987年)。主にヤド・ヴァシェム(1953年に設立された、ユダヤ人虐殺およびその犠牲者を記念するイスラエルの公的機関)と、アイヒマン捕縛に一役買ったナチ・ハンターのトゥヴィア・フリードマン(1922年~ 2011年)提供による資料を参照したおかげで、レスはアイヒマンが尋問中に嘘をついたり話をはぐらかそうとした場合、それを見抜くことができた。その後、アイヒマンに自らの所業を認めざるを得なくさせる追加情報がもたらされた際、この元親衛隊中佐は、自分はナチ内部で何ら権限を持たない存在であり、単に命令に従っただけだと主張した。このときレスは、アイヒマンが自らの罪の重さを認識しておらず、何ら良心の呵責を覚えていないことに気づく。なお、尋問の記録は、書籍『アイヒマン調書─イスラエル警察尋問録音記録』(ヨッヘン・フォンラング編、小俣和一郎訳、岩波書店、2009年)にまとめられている。
1961年4月11日、イェルサレム地方裁判所でアイヒマン裁判が開始された。アイヒマンに対する告発の法的根拠は、1950年のナチおよびナチ協力者法であった。同法によりアイヒマンは人道性に対する犯罪、戦争犯罪、ユダヤ人に対する犯罪、犯罪組織の構成員であったことなど、15におよぶ刑事上の容疑で起訴された。裁判は三人の裁判官──モシェ・ランダウ裁判長(1912年~2011年)、ベンヤミン・ハレヴィ判事(1910年~1996年)、イツァク・ラヴェー判事(1906年~1989年)──によって執りおこなわれた。主任検察官はイスラエル人ギデオン・ハウスナー(1915年~1990年)。ハウスナーの補佐を務めたのは、司法省のガブリエル・バック(1927年~)と、テル・アヴィヴ地方検事ヤーコヴ・バロール。弁護団は、ドイツ人弁護士ロベルト・セヴァティウス(1894年~1983年)、弁護士助手ディーター・ヴェヒテンブルッフとアイヒマン自身。
イスラエル政府は、さまざまなメディアがアイヒマン裁判を取材・報道するようお膳立てした。世界中の有力紙が記者をイェルサレムに送り込み、この裁判をめぐる記事を第一面に配した。裁判はイェルサレムの中心部にある劇場(現:ジェラルド・ベハール・センター)でおこなわれた。アイヒマンは、防弾ガラスで周囲を囲まれたブース内に座る。暗殺の試みから彼を守るためである。建物は記者たちが裁判の様子を閉回路テレビ(限られた数の受信者にサーヴィスすることを目的としたテレビ伝送システム)で眺めることができるよう変更を加えられており、劇場自体750の座席を有していた。これはイスラエル人たちにとって初めてテレビの生放送を目にする機会となり、撮影されたヴィデオ素材は毎日アメリカ合衆国へ空輸され、翌日テレビ放映された。
訴追は56日間にわたっておこなわれ、数百におよぶ証拠書類が参照され、112名の証人(その大半がホロコーストの生還者)が召喚された。ハウスナーはアイヒマンの罪状を立証するだけでなく、ホロコーストの全貌を描き出すデータをも提示することで、包括的な記録を作り上げることを意図していた。セルヴァティウス弁護士は、アイヒマンに直接関係ないデータの提示を繰り返し抑制しようとし、概ね成功した。裁判では戦時の記録文書に加え、アイヒマン尋問時の録音テープや筆記録、オランダ人元対独協力者(武装親衛隊員)でジャーナリストのヴィレム・サッセン(1918年~2002年)が、1956年暮れから1957年にかけて評伝執筆のためヴェネズエラでアイヒマンに取材した際の記録も証拠として提出された(ただし後者の場合、取材時におけるアイヒマンの自筆メモのみが証拠として認められた)。
検察側が提出した証拠のなかには、主要な元ナチ党員たちによる証言録取書も含まれていた。弁護側は、反対尋問を可能とするために、証言した元ナチ党員たちをイスラエルに召喚するよう要求。しかし主任検察官ハウスナーは、イスラエルに入国した戦争犯罪人は誰であれ逮捕しなくてはならないと言明した。検察当局はアイヒマンがヘウムノ、アウシュヴィッツ、ミンスクなど、ナチによるユダヤ人らの“絶滅”がおこなわれた数々の場所を訪れていたこと(とりわけミンスクで、アイヒマンはユダヤ人が銃撃により大量殺戮された現場を目撃している)、ゆえにユダヤ人たちが殺害されていた事実に気づいていたことを証明した。
検察側が弁論を終えると、弁護側はアイヒマンに長々しく直接尋問しつつ、冒頭陳述をおこなった。モシェ・パールマン(1911年~1986年)やハンナ・アーレント(1906年~1975年)といった裁判を傍聴した知識人たちは、アイヒマンのありふれた外見や感情を表にあらわさない態度に注目する。このときアイヒマンは、「自分には命令に従う以外に選択肢がなかった」のだと主張した。
このような主張は、1945年から1946年にかけておこなわれたニュルンベルク裁判の被告人たちもおこなったものである。つまりアイヒマンは、決定は自分が下したものではなく、ハインリッヒ・ミューラー、ラインハルト・ハイドリヒ、ハインリッヒ・ヒムラー、そして最終的にはアドルフ・ヒトラーが下したのだと主張したのであった。セルヴァティウス弁護士は、ナチ政府の決定は国家無答責であって、通常の訴訟手続きには属さないものであると申し出た。ヴァンゼー会議(ヒトラー政権の高官15名が1942年1月20日にベルリンのヴァンゼー湖畔に集まって、ユダヤ人の抹殺を討議した会議)に関しては、アイヒマンはその結果に満足と安堵を覚えたと語った。というのも、彼の上役たちが絶滅政策をはっきりと決定したことで、(決定に関わらなかった)自分はいかなる罪からも放免されたと感じたからであった。尋問最終日、アイヒマンは移送手配に関して自らの罪を認めたが、同時にその結果に関しては罪の意識を覚えていないと述べた。
ハウスナー検察官は反対尋問中、アイヒマン個人の罪を本人に認めさせようとし続けたが、その種の告白を引き出すことはできなかった。アイヒマンは、自分がユダヤ人のことを良く思わず、敵だとみなしていることを認めたが、彼らに対する絶滅政策は正当化できないと考えていた。1945年にアイヒマンが漏らした「私は笑いながら墓に飛び込む。というのも、[自分が死に追いやった]500万におよぶ人間のことを思うと、素晴らしく満足した気持ちになるからだ」との言葉をハウスナーが証拠として提出すると、被告人は「その発言は(ユダヤ人のことでなく)ソビエトのような“ドイツの敵”のことを指したもの」だと応じた。その後の尋問で、アイヒマンは上記の発言がユダヤ人に言及したものであることを認めたが、同発言は当時の自分の見解を正確に反映したものであると述べた。
評決は1961年12月12日に読み上げられた。裁判官たちはアイヒマンに対し、個人としての殺人罪、「アインザッツグルッペン」(ドイツ語で「出動集団」「機動部隊」の意。「ユダヤ人問題の最終解決」の実行において主導的役割を果たした)の活動を監督した罪には問われないと宣した。他方彼は、移送列車内の劣悪きわまりない環境や、移送のため大勢のユダヤ人たちを捕縛・連行させた責任を問われた。アイヒマンは人道に対する罪、戦争に対する罪、ポーランド人やスロヴェニア人やジプシーに対する罪で有罪判決を受けた。また、三つの違法組織──ゲシュタポ、秘密情報機関(SD)、親衛隊(SS)──の一員であったことでも、有罪判決を受ける。裁判官たちはアイヒマンが命令に従っただけでなく、ナチの大義を誠心誠意信奉し、大量虐殺を遂行するにあたって欠かせない役割を担った人物であると結論づけた。そして1961年12月15日、アイヒマンは死刑を宣告される。
セルヴァティウス弁護士は、イスラエルの司法権とアイヒマン告発の合法性をめぐる法的議論に焦点を当てつつ評決に異議申し立てをした。1962年3月22日から29日にかけて、審理がおこなわれる。アイヒマンの妻ヴェラがイスラエルを訪れ、4月末に夫に面会(二人が顔を合わせたのは、これが最後の機会となった)。5月29日、イスラエル最高裁判所は弁護側の異議申し立てを棄却し、地方裁判所の判決を全面的に支持した。一方、アイヒマンはイスラエル大統領イツァク・ベン=ズヴィ(1884年~1963年)に、ただちに恩赦を申請した。哲学者のフーゴ・ベルクマン(1883年~1975年)やマルティン・ブーバー(1878年~1965年)、作家パール・バック(1892年~1973年)、教育家・宗教哲学者エルンスト・ジーモン(1899年~1988年)といった著名人が、アイヒマンへの恩赦を請願する。イスラエル初代首相ダヴィッド・ベン=グリオン(1886年~1973年)が問題解決を図って特別に閣議を開き、5月31日午後8時にアイヒマンは恩赦の申請が却下されたことを知らされる。死刑執行は同日深夜に予定される。
そしてアイヒマンは、予定通り1962年5月31日真夜中少し前に、イスラエル中央地区のラムラにある刑務所内で絞首刑に処せられた。処刑前、アイヒマンは最後の食事を拒否し、ワインを少量だけ飲んだ。また彼は、処刑時の慣習である黒頭巾を被ることも拒否した。最後にアイヒマンは、以下の言葉を残した。「ドイツ万歳、アルゼンチン万歳、オーストリア万歳。私が最も強く結びつき、そして忘れない三つの国だ。妻、家族、友人たちに挨拶を送る。準備はできた。人の宿命として、私たちは間もなく再会するだろう。神を信じつつ、私は死ぬ」。
処刑終了後間もなく、アイヒマンの遺体は内密に火葬された。6月1日午前4時、その遺灰はイスラエル海軍の警備艇に乗せられ、地中海の国際水域に撒かれた。
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