憲法情報Now<シネマ・DE・憲法> (62) 「映画『日本の戦争』シリーズ上映会」
憲法情報Now<シネマ・DE・憲法> (62)
「映画『日本の戦争』シリーズ上映会」
(初出2005年8月15日掲載)

*(註)下記4作品の上映会告知の日時は、この記事が掲載された2005年当時のものです。
「戦後60年にあたっての各地で映画上映会企画」としてどのような企画があったかという視点でご覧ください。
映画「日本の戦争」シリーズの上映会が下記の通り開催されます。
上映日時:2005年8月20日(土) 午後6時開場 ( 午後6時30分上映開始)
上映会場:アプリコ・小ホール (東京・JR蒲田駅東口5分)
入場料金:前売り 800円 当日 1000円 (ただし、高校生以下無料)
主催:映画「日本の戦争」シリーズ大田区上映実行委員会
問い合わせ先:小笠原 春美さん TEL(03)3733-0279
前売りチケットご希望の方の連絡先:k-grim@fb3.so-net.ne.jp
<映画「日本の戦争」シリーズ(http://www7a.biglobe.ne.jp/~jwar)>
◆日韓併合への道(30分)
◆朝鮮半島植民地支配の実態(28分)
◆太平洋戦争への道 中国大陸侵略(30分)
◆太平洋戦争と東南アジア(29分)
◆太平洋戦争と沖縄(35分)
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『日韓併合への道』(30分)
地図の上 朝鮮国にくろぐろと
墨をぬりつつ 秋風を聴く 石川啄木
1910年(明治43)大韓帝国の名前が世界地図から消えることになる。日韓併合。日本による本格的な朝鮮半島の植民地支配の始まりであった。
しかし、韓国を併合するまでには、実に35年もの長い道のりがあった。
江戸時代、日本は鎖国をしていたが朝鮮とは国交を保っていた。そして、使節団が相互を往来した。朝鮮から日本へ来た使節団を朝鮮通信使と呼んだ。幕末の激動する政治情勢の中で、朝鮮通信使は途絶えた。明治新政府は朝鮮に国交の再開を望む国書を送った。しかし、その内容が朝鮮国王を日本の天皇の下に見下すものであったために拒否される。日本は軍艦を派遣し、武力衝突を引き起こした。これが雲揚号事件である。日本は朝鮮と江華条約を結び、釜山、元山、仁川を開港させた。日本の朝鮮侵略への第一歩であった。
こうして、朝鮮半島では権益を巡って清(中国)やロシアと次第に争いが激しくなっていき、やがて、日清戦争や日露戦争となる。
さらに、日本に対抗する閔妃を暗殺。朝鮮統監府から総督府へと支配を強め、、その間に起こる甲午農民戦争などの反日の戦いに軍隊を送って制圧。しかし、民衆の戦いは止まず、安重根に伊藤博文が暗殺される。そして、併合後には国中に反日の嵐が吹き荒れた。3・1万歳運動である。
明治維新とともに日本が歩みだした近代化への道。欧米列強に肩を並べんと富国強兵、殖産興業を目指した近代化が日本にとって光とすれば、朝鮮支配はその道のりについて廻る影であった。しかし、朝鮮にとって日本の光は国家と民族を否定する刃であり、しかも、その刃の犠牲にされる謂れは何もなかったのである。
脚本・監督 中津義人
制作 東映株式会社教育映画部
『朝鮮半島植民地支配の実態』(28分)
内容
1910年(明治43)朝鮮半島を植民地とした日本は、まず土地調査事業を開始した。それは農民から土地を奪う政策であった。土地を失った農民たちは満州に流れ、また日本に渡った。そして、急速に発展した日本の各産業の最先端で働く低賃金労働者となっていった。そして、賃金差別や職業差別、民族差別に耐えなければならなかった。
関東大震災では、「鮮人が暴動を起こしている」「朝鮮人が放火、強姦、井戸に毒を投げ込んでいる」という流言に怯えた民衆が武装自警団を組織し、朝鮮人狩りを行い、6千人を越える朝鮮人が殺害された。
1931年(昭和6)、日本が中国侵略を開始すると、朝鮮半島はその後方支援基地の役割を担わされ、戦争に必要な木材や鉄鋼、金属などの地下資源の採掘が盛んとなる。そして、皇国臣民化政策を強行し、皇民化教育により言葉を奪い、創氏改名により名前さえも奪った。そして、募集という名の強制連行をも開始した。
1941年(昭和16)、太平洋戦争に突入すると朝鮮半島に徴兵令を公布する。朝鮮半島では老いも若きも、男たちは日本の兵隊や労働力として狩り出されたのである。そうした強 制連行、強制労働の足跡は日本の各地に今なお痕跡を留める。
オホーツク海に面した北海道猿払村浅茅野。ここでは海軍の飛行場建設のため千人近い朝鮮人労働者が連れてこられ、僅か2年の間に100人以上が亡くなっている。過去帖には、かつて生きていたときの証として名前だけが延々刻まれている。美唄炭鉱。ここでも爆発事故やこの地方を襲った集中豪雨でタコ部屋が流され、多くの朝鮮人労働者が命を失っている。長野県松代。本土決戦に備えて大本営をここに移す計画が密かに実行され、7千人あまりの朝鮮人労働者が連れてこられた。工事は極秘で進められたため、犠牲者は闇から闇に葬られ、その真相は未だ明らかになっていない。掘り進めた坑道の岩壁に故郷や家族を偲ぶハングル文字が今も残る。
日本に強制連行された朝鮮人は70万人とも、100万人とも言われている。そして、日本の敗戦前夜には、在日朝鮮人は236万人に達していた。
戦後、その多くは祖国に帰ったもののサハリン、旧樺太の朝鮮人は引き揚げの対象から
外され、そのまま取り残された。その数、4万3千人。
ソウルにあるKBS(韓国放送公社)では、肉親からの便りや未だ行方のわからない肉親の消息を尋ねる放送を流している。「お父さん、何処に生きていらっしゃるのですか。この放送を聞いたら、ぜひ連絡を下さい。母は、お父さんだけを待ちながら、今も故郷で暮らしています。」KBSの電波は、過ぎ行く時の中で今日も、極東の空を駆け巡っている。
脚本・監督 中津義人
制作 東映株式会社教育映画部
『太平洋戦争への道 中国大陸侵略』(30分)
内容
1931年(昭和6)満州事変が起こる。これは関東軍の陰謀による計画的な軍事行動であった。国内では「満蒙は帝国の生命線である」と国を挙げて叫んでいた。
中国大陸侵略の道のりは遠く日清戦争に遡る。勝利した日本は遼東半島、台湾、澎湖島を日本の領土とした。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉で遼東半島を清国に返還する。次第に帝政ロシアの力が強まる中、権益拡大を目指す日本は、ついにロシアと衝突。日露戦争である。これにも勝利した日本は、朝鮮半島での独占的支配権とロシアが建設した南満州鉄道、そして、三国干渉で還した遼東半島の租借権を手に入れる。1910年(明治43)の日韓併合で中国進出の土台を固める。1914年(大正3)第一次世界大戦が起こると日本の経済は重工業を中心に飛躍的に発展。しかし、1929年(昭和4)世界大恐慌が始まると日本経済もたちまち行き詰まり倒産が続出。失業者が溢れ、農村では生糸や米の値段が暴落。娘の「身売り」が相次いだ。その状況下で肥沃な大地と資源を持つ満州、膨大な市場である中国大陸は日本の経済を根底から支えていた。
一方、中国国内では1925年(大正14)第一次国共合作がなって国民政府が樹立、蒋介石率いる国民革命軍が北伐を開始し、日本軍に迫っていた。
これに対し日本は「満州は生命線」と位置づけ、中国東北部を中国本土から切り離す「満蒙分離政策」を推し進める。満州事変は、そうした政策を具体化させる軍事行動であった。僅か5ヶ月で満州全土を占領すると、清朝最後の皇帝愛親覚羅溥儀を元首とする満州国を樹立し、中国から分離独立させる。世界は、これを日本の傀儡政権として認めず、いっせいに日本を非難。日本は国際連盟を脱退する。
こうした日本の武力侵略に中国各地で抗日闘争が繰り広げられ、各地で日本軍による虐殺事件が起こる。撫順市の平頂山虐殺事件では3千人近い村人が非業の死を遂げた。
また、日本は大勢の農民を満蒙開拓団として満州に送り込み、結果、中国の農民から土地を奪うことになり、こうしたことがますます反日闘争を激化させていった。
そして、1937年(昭和12)北京郊外の蘆溝橋で日中両軍が衝突。本格的な日中戦争の開始であった。日本軍は北京、天津を相次いで占領。上海では無差別都市爆撃を行い、ついに南京をも陥落させる。その南京では敗残兵狩りを名目とした虐殺が行われた。
こうして日中戦争は泥沼化し、それから手を引く機会を逸した日本は、ついに1941年(昭和16)南進政策の下に、太平洋戦争へと突入していったのである。
脚本・監督 中津義人
制作 東映株式会社教育映画部
『太平洋戦争と東南アジア』(29分)
内容
■太平洋戦争の開始
1941年(昭和16)12月8日未明、日本軍はハワイ真珠湾を奇襲。しかし、その2時間前に日本軍はマレー半島上陸作戦を敢行していた。上陸地点はコタバル。太平洋戦争は、コタバルから始まっていたのである。
主力部隊はタイ南部のシンゴラやバタニに上陸し、東洋一の軍事要塞シンガポールを目指した。開戦から僅か70日あまりでイギリス軍は降伏し、マラヤとシンガポールは日本の占領地となった。
■占領下のマレー半島
「天皇陛下ノオオサメニナル日本ハ世界ヂュウデ一バンリッパナ国デス」と書かれた当時の日本語教科書がマレーシア国立公文書館に残る。日本は生活習慣や教育、言語にいたるまで日本への同化を強要した。そして、授業を受ける子どもたちは毎朝朝会で「君が代」を歌わなければならなかった。
当時を語る呉志超氏。「占領した後、日本は東南アジアの民衆を解放するためだと言った。しかし、それは間違いだ。日本人が来てやったことは暴力と弾圧、虐殺だった。とても、開放などではなかった。」
■なぜ、東南アジアにまで侵略したのだろうか
その大きな要因は日中戦争である。中国側から描いた映画『バトル オブ チャイナ』(監督フランク・キャプラ 1944アメリカ)は抗日民族統一戦線の成立、そして抗日の戦い、蒋介石支援ルートによる英米の支援などを描くとともに、日本の支配が点と線でしかなく、泥沼化していく様子をも詳細に描いている。
日本は泥沼化する日中戦争の打開を南進政策に求めた。その目的はゴム、スズや鉄鉱石、石油という東南アジアの豊富な資源の確保とビルマから雲南省を経て重慶にいたる蒋介石支援ルートの遮断であった。
■シンガポール大検証とマレー虐殺
シンガポールを占領した日本軍は華僑義勇軍、共産党員、抗日分子、重慶への献金者などの摘発を目的に中国系住民を対象とした検証を行った。良民と判断され、「検」のスタンプが押された者だけが帰され、疑いのある者は拘留された。拘留された人々はシングラップの浜辺で殺された。
こうした検証と虐殺はマラヤでも行われた。クアラルンプールの少し南にあるパリッティンギ村。ここでは675人の村人が殺された。うち250人近くは子どもであった。葉一苟さんはその虐殺から奇跡的に助かった。身体にはその時銃剣で刺された傷跡が7ヶ所も残っている。スンガルイ村では列車に乗ってやってきた日本軍が村に火を放ち、小さな赤ん坊まで銃剣で殺した。今はないイロンイロン村では1474人が殺された。大勢の中国系住民が抗日軍ということで殺され、その犠牲者の数は未だつかめていない。
■元日本兵の証言
元日本兵、三宅元次郎さんは400人ぐらいの中国系住民がゴム園で虐殺されるのを目撃
した。「日本軍の将校は、ただいまより大元帥閣下の命によりこれを殺す、と言うと軍刀で首を落とした。血柱が2,3メートル吹き上がった。シューと音と立ててな」「人として、人間として、ほんとうは話したくない。日本の恥、日本人の恥やからな。」元日本兵、三宅元次郎さんの言葉は重く響く。
脚本・監督 中津義人
制作 東映株式会社教育映画部
『太平洋戦争と沖縄』(35分)
内容
太平洋戦争の末期、日本で唯一の地上戦となった沖縄。米軍の戦史は伝える。「ありったけの地獄を一ヶ所にまとめたような戦闘であった」と。
■アメリカの反撃と日本軍の敗北
開戦以来、破竹の進撃を見せた日本軍。しかし、日本より戦力の面ではるかに勝るアメリカが大量の航空機、艦船、近代兵器を使用して反撃に転じた。日本は1942年(昭和17)
6月のミッドウエー海戦の敗北以後、各地で敗退を繰り返していった。敗因は航空戦力の劣勢であった。日本の工業生産力は長引く日中戦争で消耗していた。総動員体制の下、「欲しがりません勝つまでは」を合言葉に「金属供出」と「勤労奉仕」により航空機や兵器の増産に努めたがアメリカの生産力に太刀打ちできるはずもなかった。
■沖縄戦の予測と沖縄守備軍の強化
1944年(昭和19)の夏、連合国軍のマリアナ作戦が開始され、サイパンが玉砕すると、大本営は米軍の沖縄進攻を予測し沖縄守備軍の強化を計る。満州や中国大陸、千島、樺太、日本内地から実戦部隊が続々と沖縄に移動して来た。総勢6万7千。沖縄では全島要塞化に向け、飛行場建設や陣地の構築が進めらていった。
■B-29の本土空襲
そうした中、東南アジアや太平洋では日本軍の敗北が続いていた。太平洋の島づたいに日本本土に迫ってきた米軍はマリアナ諸島にB-29の基地を設営。そのB-29による空襲が1944年(昭和19)の暮れから始まった。1945年(昭和20)3月には硫黄島が玉砕する。そして、日本の殆どの都市がB-29の爆撃で破壊されていった。
■開戦前夜
この段階で日本の敗戦は決定的であった。しかし、大本営は本土決戦を叫び続けた。そして、沖縄では時間稼ぎのために長期の持久戦を展開する作戦が立てられた。根こそぎの総動員体制が敷かれ、13歳の少年や70歳の老人まで狩り出された。中等学校生は鉄血勤皇隊に、高等女学校生は学徒看護隊に、女子青年団は救護班にそれぞれ組織されていった。沖縄守備軍約10万の内、その1/3が臨時召集や学徒隊などのにわか仕立ての兵士だった。
■開戦
こうして沖縄は戦いの日を迎えた。1945年(昭和20)4月1日、米軍本隊は沖縄本島宜野湾読谷、北谷の海岸に上陸開始。海は米軍の艦船で埋め尽くされ、黒々としていたという。地上戦闘部隊18万3千、艦船約3千、補給部隊を合わせると54万の大部隊であった。日本軍の反撃は一切なく、米軍は首里を目指して南下。米軍の通過する村々ではガマ(洞窟)に隠れていた村民たちが集団自決を計った。「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪過の汚名を残すことなかれ」日本軍の戦陣訓に基づく自決であった。
■死闘
日本軍は浦添丘陵に主力部隊を配置して米軍を待ち受けた。死闘の攻防戦が始まったのは4月8日。猛烈な砲撃を加えてから戦車部隊と歩兵部隊を突撃させて来る米軍。日本軍は地下陣地から迫撃砲や機関銃で応戦し、夜になると闇にまぎれて肉弾攻撃を行う。この血で血を洗う激しい攻防戦はおよそ50日間繰り広げられ、5月下旬まで続いた。日本軍の戦死者約6万4千名。全兵力の8割を失い、壊滅した。浦添丘陵に残る嘉数の塔の碑文は伝える。『物量を誇るアメリカ軍の大軍、宜野湾に上陸す。迎え撃つ日本軍は兵器甚だ劣勢にして唯日夜肉弾、また肉弾。ここ嘉数の丘に玉砕す』
■持久戦と肉弾
日本軍はあくまで持久戦で臨む作戦をたて、隆起珊瑚礁の自然洞窟がたくさん存在する喜屋武半島に撤退。それに伴い各野戦病院では閉鎖とともに重症の負傷者の処置命令が出された。それは青酸カリによる自殺であった。
海軍部隊は南部への撤退作戦に同調せず、陸戦隊1万名が小碌飛行場に立てこもって米軍を迎え撃ち、6月3日から10日間激戦の末、大田司令官以下自決し玉砕。
陸海軍の航空部隊は「菊水作戦」の名で特別攻撃をかけた。目指すは敵空母。我突入す。
これが最後の言葉であった。延べ1900機が飛び立ち4千4百の若い命が散った。アメリカ軍の350隻が被害を受け、1万名の米兵が命を落とした。
こうした特攻は空だけではなかった。海でも爆弾を積んだ特攻艇が敵の艦船に体当たりをかけた。陸でも手榴弾や爆雷を抱いて鉄血勤皇隊の少年や救護班の少女が戦車に体当たりをかけた。負けると分った戦いに、ただ時を稼ぐためだけの戦いに、空に、陸に、海に、爆弾を抱いた体当たり戦法で多くの若い命が散った。それが沖縄の戦いであった。
■沖縄戦の最後
喜屋武半島での最後の戦いは、、まさに地獄絵図さながらであった。洞窟に潜む負傷兵や赤ん坊を抱いた母親、子ども、そして老人たちが黄燐弾やナパーム弾、火炎放射器などで焼き殺されていった。日本軍司令部のある摩分仁の丘は、丘陵全体が砲弾と炎につつまれ、まさに鉄の暴風吹き荒れる丘となった。6月23日、司令部壕に立て篭もる将兵が最後の切り込み攻撃をかけ、玉砕。こうして沖縄の戦いは終わった。
1945年3月末、沖縄の戦いが始まる時点で廃墟と化し、完全に敗北していた日本。その段階でなぜ、日本は降伏しなかったのであろうか。なにゆえに、大本営は最後まで本土決戦を叫び続けたのであろうか。
脚本・監督 中津義人
制作 東映株式会社教育映画部
「映画『日本の戦争』シリーズ」
戦争はこうして作られ
戦争はこうして次なる戦争を呼び
戦争はこうして破滅を招く
戦争を見つめ平和を考えるために
これら5本の映画は1990年代半ばに迎えた終戦50年目を境に、太平洋戦争やそこに至る道のりを描き、戦争に明け暮れた日本の近・現代を見つめてみようと企画され、制作されたものです。
5本を順に通して見てみると、ある必然性が浮かび上がってきます。明治維新後、欧米列強に肩を並べんと近代化を急ぎ成し遂げていく日本が、その道のりの中で朝鮮半島や中国大陸に市場と資源と労働力を求めて侵略の手を伸ばし、覇権を巡り中国やロシアと戦争となり、勝ってさらなる侵略へと進み、激しい抗日の戦いには武力と残虐な殺戮で臨み、中国大陸での戦争が泥沼化すると打開の道を東南アジアに求め、ついに世界を相手に戦争をしなければならなくなり、その終着駅が1945年(昭和20)の廃墟と化した日本であった、という破滅への道の必然性です。
どんな戦争にも必ず起こる原因があり、その原因は様々ですが戦争の顔は、どれも惨く同じです。そして最後は破滅であることも同じです。アフガニスタンでの戦争も、イラクでの戦争も、パレスチナでの戦争も。歴史はそれを示唆しています。そうした意味で、21世紀を迎えてもなお、戦争が時代の主役である今、平和を考える一つの力でありたいと願い「日本の戦争」シリーズを一人でも多くの人に見てもらいたいと思っています。
スタッフ
企画:岡田順徳
撮影:川田秀明高岩仁常田高志
録音:栗林豊彦
照明:田久保剛
編集:桑原孝子
音楽:杉田一夫
ナレーター:下條アトム
制作:東映株式会社教育映画部
プロフィール
中津義人
1946年生まれ。1970年3月法政大学社会学部卒業。4月中日映画社入社。1980年11月同社企画室主任を退職。以後フリーとなり、映画の監督・脚本を業務とする。
■主な作品歴
1970年代:映画「忘却の海峡」(企画・制作)サハリン残留朝鮮人問題を訴えた長編ドキュメンタリー(松山善三監修)
1980年代:映画「輪島塗」「有田焼の町から」「がんと食生活」(科学技術映画祭長官賞)などの他に、福井県立博物館ビデオライブラリー(民族篇担当)神戸水の科学館などの博物館の映像を作る。
1990年代:北海道釧路原野を切り拓いた人々の歴史を見つめる、映画「ふるさと見聞録 釧路歴史物語」「ふるさと見聞録 釧路四季物語」(毎日産業映画コンクール奨励賞)
日本とアジアの国々を見つめる歴史シリーズ(東映)「日韓併合への道」「朝鮮半島植民地支配の実態」「太平洋戦争への道 中国大陸侵略」「太平洋戦争と東南アジア」「太平洋戦争と沖縄」「日本の四大公害 四日市ゼンソク」
「日本の四大公害 イタイイタイ病・水俣病」「中国の小学生と家庭生活」等
これらの映画は、教育映画祭最優秀映画賞や教育映画祭文部大臣賞を受ける。
1990年代後半、地球と環境と人の暮らしを見つめるTV番組「素敵な宇宙船地球号」(テレビ朝日)国際版の演出を1997年から3年にわたって担当(約20本)する。さらに、20世紀の日本の歴史をテーマ別に見つめた「報道映像 20世紀の日本(全12巻)」(小学館/TBS)
2000年代:永平寺瑠璃聖宝閣シアター「道元禅師開山への道
◆連絡先
Tel/Fax: 03-3871-0539 Email: k-grim@fb3.so-net.ne.jp(川崎)
以上「「映画『日本の戦争』シリーズ」」
http://www7a.biglobe.ne.jp/%7Ejwar/kankoku1.htmlより
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